子どもの哲学を読んで合わせて自分なりに書いています。
この本は子供が感じるような素朴な疑問に対して一緒に考えていく本です。
まず友達ってなんなんでしょうね。
知り合い。
知り合いかつこちらが好意を持って接する人。
知り合いかつお互いに好意を持って接する人。
どれも友達って言ってしまえばそうかもしれない。
少し話は変わるけれど、僕は絶対的の自己、本物の自分なんてものは探してもしょうがないんじゃないかとまず思ってて。
例えば、自分一人が地球上に存在しているとして、そんな僕が「優しい」だの「活発」だの「背が高い」だのは存在しないわけで。
他人がいるから「自分」が定義できる。
優しい自分も活発な自分も背が高い自分も誰かがいるから存在し得る。
エヴァンゲリオンのATフィールドってご存知ですか?
あれは他人との境界線を示してて、あれがなくなっちゃうと溶けて混ざってしまって最終的に自分がなくなるんです。
シンジは最後にそれを拒否することによって存在した。
痛みも喜びも他人と自分との相対的な存在が前提なんですよね。
さてどうやったら自分をより鮮明に定義できるかというと、比較対象のサンプル数を多くしていけばどんどんそのデータは信頼に足るようになる。
誰か一人だけと比較して自分がどうだ、って定義しちゃうとそれって全然信頼できるデータじゃないですよね?
ウサインボルトと比べて足が遅いから自分は足が遅い人間だ、なんてデータとして意味ないと分かるでしょう。
世の中でよく聞く「他人と比べなくたって良い」みたいなのってこれに近い気がする。
そりゃその比較じゃ意味ないのにそこに固執しちゃって、無駄だなぁ、って話。
より自分を鮮明に形作って、自分を見つめるためにはけっこうなサンプル数が必要。
そしてそのサンプルは多岐に渡らなくちゃいけない。
だから僕は関わる人間は多い方が良いんじゃないか、と思う。
「友達」が多い方がいいとかはちょっと分からない。
ただ嫌い合っている存在よりかは好意をお互い持っている人の方が深く付き合えるし情報量が多いんじゃないかと思うから出来れば友達は多い方がいいのかもしれない。
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